2003年05月21日

「私は、うなぎだ」≠「I am an eel」

「私はうなぎです」という文章は、日本語教育者の間でも、外国人に理解してもらいにくい文章として有名だそうです。また、「May I take your order」・「ご注文をお伺いします」という質問に対して、日本語では「私はうなぎです」とも言えますが、英語では「I am an eel」とは言えないことが日本人の英語の問題の大きな原因になっていることがよく指摘されます。貴方もこのような間違いをしますか?まずは「I am not an eel」というクイズを受けてください。


日本人の書いた文章には、この類の問題が実に多いんです。私の学生が書いた下記の文章が全部、「I am an eel」と同様に英語にはなっていません。(ネィティブの反応は括弧の中に)


「私は正直だ」「I am honesty」×(人間が消えて、抽象概念になったか?)


「私は小柄だ」「I am small build」×、(えっ?)


「私は足が短いです」を「I am small legs」×(胴体のない足・奇妙!)


「(私が)高校だったころ」「When I was high school」×(建物か?)「日本経済は不景気だ」「Japanese economy is depression」×(日本が消えた?)


「私の学校は共学だ」「My school is coeducation」×(学校が消えた?)


「日本は安全だ」「Japan is safety」×(日本が消えた?!)


同様な問題は将来形の文章:「来年は退職だ」「I will be retirement, next year」× (自分が消える?)


そして「なる」(become)の文章:


「(私が)癌になったら」「When I become cancer」×(人間が細胞の塊に?!)


全て「私はうなぎです」を「I am an eel」と英訳すると同じように奇妙な間違いです。人間や国が、足など別の物体になったり、消えて「safety」などの抽象概念になったりしたという印象をネイティブに与えます。「何々です」という文章が多いから、日本人の英語においてこの問題は実に大きい。 この問題はなぜ生じるでしょうか?ざまざまは説明がありうると思います。 説明1)英語の「X is Y」という文章と、日本語の「AはBです」という文章も、一種の同等関係を表しています。しかし、英語のbe動詞(と「become」)の意味はより正確で狭義ので意味で「=・イコール」(と「=イコールになる」)であり、日本語の「だ」・「です」ほど緩やかではありません。そこで、『英語のbe動詞は厳密な同等性を表します』というのは、一番簡単な説明で、チェックするのも手っ取り早いです。例えば、「X is Y」(「XはYです」)「X will become Y」(「XはYになります」)という文章の中のXとYは本当にイコールかどうかを調べることができ、同等ではない場合は手直す(次回の記事をご覧ください)。


しかし、「私は教師だ」というのをなぜ「I am a teacher」と英訳できるのかという質問に答えるのが難しいです。私は人間であって、教師であるのは1日の半分であって、私の全てでも「イコール」でもありませんので、「am」の対等関係は「より厳密」とかしか言えません。「なぜこれは冠詞「a」の意味と絡んできますから、別の機会に譲りましょう。 説明2)日本語の「主語」はいつも「話題」日本語の文章の中で「は」の前の言葉は、場合に「話題」であったり、場合に「主語」であるといわれます。少なくとも、「私はうなぎです」という文章の中では、「私」は文の話題であって、より具体的な意味をもつ英語の文書の主語に該当しません。「私はうなぎです」というのは、「私に関して言えば、私の注文が、うなぎですよ」という意味で、「私」は話のテーマであって述語の「うなぎです」がつく「主語」ではありません。これは「I am an eel」を修正するためのヒントを得られます。次回、「うなぎ文」の修正仕方を考察しましょう。

Posted by timtak at 2003年05月21日 15:33
Comments

うなぎ文について研究している国際基督教大学の大学院生です。日本語文法関連の本(久野の『談話の文法』、池上『日本語論への招待』など)には、「英語にも、注文をする時など“I'm fish."ということがある」とされていますが、英語の「うなぎ文的表現」について何か研究文献はありませんか。ご存知の範囲で結構ですから、教えてください。

Posted by: Misumi, Tomko at 2003年10月18日 14:09

コメントをいただきありがとうございました。

確かに、くだけた英語表現では"I'm fish"はまったく使えないということではありません。友人同士がパブかとごかで話し合って、会話を非常に省略しながら話していればないことはありません。極稀で、"I'm having fish"の略でしょうが、I'll 'ave fish, fish, fish pleaseなどのほうが多いでしょう。あるいは、例えば注文表をチェックしているときに、誰がどれを頼んだと、注文の文章と人間と照合をしていれば、"I'm fish"がより出やすいかもしれません。この場合、二つのregisterかchannelが混乱されているように思います。つまり、「I'm」は自分を*見ている*相手に対して、その視線に応じて"I am,"と始まり、fishとその注文表などの中での観念を修飾しています。 つまり、視線という非言語的コミュニケーションの介入が感じられます。

私論ですが、この現象がなぜ日本で「私はうなぎです」が普通に言えるかに関連してくると思います。(発音記号が妙に特質である「は」(”わ”)は、つねに(DerridaのDifferenceのように)、視覚的な様子を持っており、視線か指差しのような機能を持つ標記です。「は」は言語のそとの実存する主体を指し、それについての語りとの関連を指し示します。ために「は」によって「指差し」されるものは、言語である文章の残りとの対等性が問われません。のではないかと。これは私の主体論からです。講談社出版編集部「ニッポンは面白いか」講談社をご参照

学生にこのよう表現が普通使えないから「ない」と言い切りました。このような表現についての研究も、ご紹介くださった研究(ありがとう)も知りません。

Posted by: 武本ティモシー at 2003年10月18日 15:27