小生の経験では日本の英語教育は甘え・甘やかしに満ちていることが多いように思います。
山口大学の英会話の授業で、努力を評価すればよいかどうかということが議論されています。その中で、私は文章の発言数のみを評価すればよいと主張しています。
他の教員は、「学生の中には英語ができないのは精神的な問題です。努力してもらえば、英語が好きになります。また学生英語が好きになれば、努力するでしょう。このよい循環が回り始まるように、きっかけになる奨励ENCOURAGEMENTが必要になります。ですので、努力する学生にも評価を与えればよい」というご意見をお持ちの方がおられます。
この意見に賛成するところが多いですが、と同時に納得できないようなところもあります。
確かに、英語ができないのはほとんどが精神的な問題です。日本人は外来語のみに限っても充分に英単語を知っていますし、「主語・動詞・名詞」という構造だけに絞っても充分意思表現ができると思います。ブレーキになっているのは主に精神的な問題ばっかりだと思います。
避けて通れない精神的な問題と避けて通れる2種類の問題があると思います。まず、さけて通れるはずの問題には
A)まずは学校で教えられている英語に対する間違った考えたが精神的なブロックになっています。
A.1)「英語で話すのが難しい」という間違い。上手な英語は、上手な日本語とどうよう極めて難しいかもしれませんが、幼児みたいにしゃべることは上述した理由で、知的な問題ではありません。知識としては簡単です。
A.2)知識をつめば英語が話せるようになります。とんでもありません。日本の本屋さんに羅列されている「困った時の英語の表現」とかの本や英文法の細部を説明する文法の本などを全部読んでも話せるようになることはありません。繰り返しですが、英語で話すことは知識の問題ではありませんからです。
A.3)逆に英語ができないのは知識が足りない、つまり本人が無知だからです。言語的な才能は確かに存在するけれどもこれは「知識」や「無知」のような問題ではありません。英語は一種目のスポートのようなものです。そこで、例えば「バレーができませんね」と言われた場合、それをあっさり認めて困りはしません。バレーをやろうと思ったこともありませんからです。しかし誰しもは知識を身に付けようとしています。ですので、英語を知識の問題にすることで、できない人たちは「バレーができない」人たちみたいに「どうだっていいさ」という場合ではなくて、「バカ」とされます。
以上の三つの間違いを教員として学生に教えることができます。学生が納得するまでには時間がかかりますが、教え方だけで一応消え去ってしまうような精神問題です。
しかし、一方では突破しなければならない精神的な問題があります。これらの問題は、避けて通れません。
1)照れや恥:恥の文化日本では、成功しても恥ずかしくなりますので、失敗は痛いものです。上の(A.3)の問題を取り外せば、また「間違いはよいことだ」ということを印象づければ多少は「避ける」問題かもしれませんが、恥の文化が消えてしまわない限りでは、学習者が頭をぶつけて恥ずかしくなって、恥ずかしさを捨てることが必要になります。
2)人間は無意味が恐ろしいです。無意味は死のように恐いと思います。そして新しい言語を話すことはもちろん話者にとって無意味極まりないです。無意味なことばで、自分の意志を表現することは、自分の意志が、いや自分自身が消えてしまうということに等しいです。これも和らげることができますが、避けて通れません。新しい言語にも意味があることを自覚するまで、その言語で自己表現するのが多くの人にとって痛いことです。
3)日本語と英語が非常に異なる言語で、日本の語順で話そうと思えば英語の語順に並べ替えなければなりません。この作業は努力を有し頭の痛いものです。
そこで、私は授業で「主語・動詞・名詞」という語順で文章を作ってくれる学生を評価します。しかし、いくら困った顔をしたり、立派な単語を思い出したり、甘えたりしても、評価はしません。なぜなら、困った顔をする学生や単語を吐き出す学生を評価しないのは、
1)英語は(知的に)難しい
2)英語は痛み無しで取得できる。
というメッセージを発信したくないからです。簡単な文章でも発言する学生を評価するのは、これこそ努力を評価しているからだと思います。主語・動詞・名詞を並べて言うのは、恥ずかしいし、本人にとって無意味で恐いし、並び替えるのは痛いかもしれませんが、避けて通るものではないですし、頑張ればできます。頑張ればできることです。